夕食は部屋食となっている玖美子の旅館だが、その時間帯に全ての部屋に参上してご挨拶するのが日課でも、時にはお客様との会話が面白くて盛り上がってしまうこともあり、全室を回れないことがあるのも事実である。
あるご夫婦のお客様との会話。還暦記念の旅行だと言われたが、上品な感じの奥様が夕方に大浴場で中学生ぐらいの女の子に説教をしたという話があった。
「女将さん、聞いてくださる。最近の親の教育はどうなっているのでしょうかね?」
それは大浴場の広い湯船の中で目撃された出来事で、長い髪を湯に浸けてしまっている女の子に「お嬢さん、髪が濡れていますよ」と声を掛けられたら、「いいの、シャンプーするから」と返されたと言うのである。
孫の年代なのでつい説教をすることになったそうだが、指摘してもキョトンとした表情で「変なおばさんに嫌味を言われた」と思われたみたいで通じずに後悔したそうで、玖美子は「きっと学んで有り難いと思われていますいでしょう。お母さんに浴場での出来事を伝えられたら」と返したが、その娘さんがどのように感じられたかに興味を抱き、ご両親と一緒に来られているお客様の部屋に後ほど参上するので何か分かるかもしれないと想像していた。
その奥様が説教されたのは「シャンプーする、しないの問題じゃないの。湯船にタオルや髪を入れないのが基本的なマナーなの」というものだったが、親に連れて貰って銭湯へ行った体験があれば教えられているかもしれないが、そんな教育をする親が少なくなったのも確かに最近の問題であり、玖美子は取り敢えずその奥様に女将としてマナーについてご指摘になった行動に感謝を申し上げ、次の部屋へ向かった。
その中学生がいる部屋はそこから4部屋目だった。「失礼します」と申し上げて襖を開けると床の間を背に座られるお父さんの対面にお母さんと並んで座り、ちょうど出された天ぷらの料理を食べているところだった。
「女将さん、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが?」と言われたのはその子のお母様。それは例の大浴場で起きた出来事に関することで、「ご気分を悪くされているのでは?」と思っていたらその反対で、次のように言われた。
「お風呂から帰って来たこの子が『叱られちゃった』と言うので聞いたら、有り難い教えをしていただいたことが分かって心から有り難うございますと感謝しているのです。今日、この旅館の大浴場で娘は大切な学びをすることになりました。主人も『よかったなあ。その方にお礼を申し上げなければ』と同感でして、お会いする機会があれば是非お伝えしたいなと思っていますが」
玖美子はその出来事がこんな結果に進んでいる事実に心からよかったと思うことになったが、朝風呂にご一緒に行かれたらひょっとして出会うことになるかもと伝えたが、チェックアウトの際には玖美子からもご本人にこのことをお知らせしようと考えていた。
そんな出来事がその日の内に進展することになったことを知ったのは、次の日の早朝だった。この温泉地の名物となっている外湯の朝風呂から戻られたご主人さんがロビーにいた玖美子に教えてくれたのだが、昨晩の9時過ぎにお母さんと娘さんが大浴場に行かれたら、そこに説教をされた奥様がおられ、「あの人よ」と娘さんから教えられたお母さんが丁寧に御礼を言われたそうだった。
チェックアウトの時だった。その奥様が夜の大浴場の出来事のことも話され、「身も心も洗われました」と言われてお帰りになった。
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