旅館の女将としてお客様のご満足に至るようにと配慮している。何を求めて温泉の観光旅館へ来られるのかはお客様によって異なるが、最高のサービスとは「人」であり、育てているスタッフ達が「人材」から「人<財>」になって欲しいと願う仁美だった。
仁美の旅館は新幹線から在来線の特急に乗り継いで2時間も要する奥地だが、冬の雪景色の温泉情緒が最高だと知られており、冬のシーズンの予約が難しいと話題になっていた。
そんな温泉地で問題が表面化している。この世界では知られた女将夫妻が高齢から身を引かれ、後継者に任せることになったのだが、サラリーマンだった一人息子が経営のトップとなったと同時に建物を取り壊し、全く新しい発想で高級旅館を立ち上げるというものだった。
温泉街の中央を流れる川に架かっている橋の上から旅館街を眺める情緒がこの温泉地の最大の売り物だったのに、そのど真ん中にある古い旅館が建て替えられてしまうことは地元の観光組合にとっても大変で、何度も考え直すように交渉していたが、それこそ「聞く耳持たず」で融資する銀行と設計を担当する1級建築士が一緒になって進めてしまった。
予想していた以上に問題になったのは完成してからのこと。打ち出した宿泊料金が一人5万円以上という設定で、部屋数も半分になったので広くはなったが、外観も情緒という観点からすると完全にミスマッチで、この地を何度も訪れてくださる常連のお客様達からも最悪の評価となっていた。
そんな旅館の経営がうまく進む筈はなく、1年も経たない内に仕入先が取引停止を申し出るようになって銀行管理に陥り、やがて倒産という厳しい現実を迎え、今は宿泊料金を半額ぐらいまで下げて再生のための営業に至っている。
建て替えを決断した後継者も責任を取って退任し、不可欠な女将も雇われという状況になっているが、スタッフの遣り甲斐がダウンするのも当たり前の話で、年内に閉鎖するような風評が流れていた。
観光組合の役員の人達も、温泉街のイメージを激変させてしまったと嘆いているが、その怒りの方向は設計を担当した著名な建築家にも向けられ、融資を実行した地元の銀行との取引を止めて別の銀行に変更したところも出たので話題になっているほどだった。
建物が古かっても清掃が行き届いていればよいという考え方もあるし、温泉文化の情緒を大切に守って欲しいという意見も寄せられている。
テレビで旅の番組が増えているし、固定的な視聴率があるという話も聞いたが、「秘湯を守る会」や全国に点在する「野天風呂」を探索する若い女性の番組もあるのでびっくりだが、仁美はそんな番組が何より楽しみだった。
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