志保が女将を務める旅館の朝食は、チェックイン時に「和食」「洋食」「和洋食」から選択可能となっており、これが中々の評判となっていた。
そんな対応を発想した外国人のお客様が増えると予想されたこともあったが、それ以上に秘められた事情があった。
志保は三十路になったところだが、学生時代に恋人が交通事故でなくなるという悲劇を体験しており、ずっとトラウマみたいに心に残り、異性に対する恋愛感情も希薄しているということがあった。
そんな志保の大好物がクロワッサンで、女将会や研修会でホテルに宿泊したら、朝食のバイキングでクロワッサンを食べるのが楽しみだった。
「私はクロワッサンについてはうるさいわよ」と日頃から豪語していた志保だが、車で15分ほど離れた隣町にオープンしたベーカリーのクロワッサンにびっくりし、週に2回は出掛けて購入するようになっていた。
ベーカリーの主人はフランスで勉強してから帰国して国内のホテルのベーカリー部門で勤務していたそうだが、お母様入院されることになり、その付き添いもあって隣町の実家に戻り、亡くなられたお母様の納骨が済んでから実家を改造してベーカリーを開業されたというものだが、志保はクロワッサンとの出会いと同時に彼との出会いにも何か運命的なことを感じていた。
志保は、いつからか彼に恋心を抱いていたのである。
クロワッサンの味に感動した志保が何度か購入に立ち寄った時のことだった。「クロワッサンがお好きですね。いつも有り難うございます」と言葉を掛けられ、立ったままで10分ほど話し合ったことがきっかけで、その後にクロワッサンを焼き上げるまでの行程を見学させて貰ったこともあり、会話の中に彼がホテル勤務の時代に結婚していた奥様を交通事故で亡くされていることを知った。
不思議なことを共有している二人だが、ずっとベーカリーの主人と客という関係から志保が彼に相談したのが朝食に洋食を提供したいがどんなパンが良いかということで、フランスパン、食パン、クロワッサンの3種で、前日に注文を受けたら午前6時半に届けると対応を申し出てくれたのである。
ベーカリーの起床はびっくりするほど早く、午前3時頃から仕事を始めるそうだが。それはパンを焼くまでの行程が「酵母菌」という生き物の存在があるからで、そのコントロールが微妙に味を変化させるそうで、志保の旅館にはオリジナルのパンを作って対応されることになった経緯があった。
彼の届けてくれるパンは本物の絶品で、選択されたお客様が驚嘆されて「何処で買えるの?」と聞かれて困っているほどで、それは外国人のお客様も同じだった。
旅館の朝も早く、料理長や厨房のスタッフは5時半頃から仕事を始めているし、6時頃には早出の仲居が着替えを済ませてスタンバイしているが、志保の朝食は毎日クロワッサンで、みんなから「よく飽きずに」という言葉も言われている。
そんな志保と彼の初めてのデートが2週間後に決まった。彼が務めていたホテルに食事に行くというものだが、レストランの予約は午後1時にしていた。
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