女将の早和子は気になることがあった。自室の冷蔵庫に入れてある大きなペットボトルのお茶がいつもびっくりするほど減っているから。それはこの家の伝統みたいに受け継がれたオリジナル麦茶で、どうやら社長である夫の行動しか考えられなかった。
この部屋に入室出来るのは女将夫婦しかない。確認の必要があると思いながら事務所に入ると、女性スタッフから「お耳に入れたいことが」と言われてびっくりした。
こんな言葉を聞くと悪い話しかないのが常識。願うはお客様からのクレームでないということだが、内密みたいなイメージだったので別室の応接室に2人で入った。
彼女はスタッフ仲間から「さくらちゃん」という愛称で呼ばれるこの旅館のアイドルみたいな存在である。映画の「寅さん」に登場される「前田吟さん」みたいな人が理想の旦那さんと言っているところから、「倍賞千恵子さん」が演じる「さくら」と命名されたものだが、彼女は如何にも話し難い感じで次のように話し始めた。
「実は、社長さんのことなのですが、毎日隣町にオープンした『たい焼き』の店に私が買いに行っているのをお存じですか?」
隣町のコンビニの隣に出来た間口1間半で奥行きの狭い店舗で、早和子も開業したことは知っていたが、夫の命を受けて彼女が車で走っていたことは初耳で、冷蔵庫のお茶が減ることにつながる問題が浮上することになった。
「告げ口みたいになって心苦しいのですが、甘い物を毎日召し上がられる社長さんのお身体のことが心配で」
彼女の話によると10匹買って来るそうで、みんなに「食べなさい」と6匹をくれ、本人は毎日4匹を食べ、今日の午後に行ったことで4日連続だと教えられた。
この事実で考えられることは糖尿病という病気。昔から甘い物が好物だった夫にその可能性を疑ってしまうのは当然だが、病院嫌いの夫の性格なので無理にでも連れて行かなければと思い、その日に暗くなってからお世話になっている医院へ引っ張って行った。
診察された先生は問診だけで「糖尿病の可能性が高い」と言われ、紹介状を持って次の日に県立病院で血液検査を受けることになった。
そして血液検査の結果が出て専門医の診察室に2人で入った。
「立派な糖尿病です。この病気は遺伝性があると分析されていますが、問診票を拝見しましたらご両親が患っておられたようですね」
先代社長夫婦は2人共この病気で薬を服用していたし、社長の方の晩年は自分でインスリンを注射しなければならない状態で、それを夫も患っている事実に早和子は衝撃を受けた。
「もう境目まで来ています。少しでも悪化すれば最悪の場合透析という困ったことになります。近日中に教育入院をお勧めします」
教育入院という言葉を初めて耳にしたが、それは2週間から1ヵ月ぐらいで病気の知識をビデオや講義で学び、管理栄養士の指導による食事の勉強もするという体験入院で、佐和子は「今からでも入院させてください」と発言したので先生も夫も驚くことになった。
幸いにして病室が空いており、次の日から3週間という予定で入院したが、数日後に見舞いに行くと、自分が患った病気の恐ろしさを理解したので今後は気を付けると反省したみたいで、旅館に戻った早和子は料理長に相談して夫の食事に関する協力を願うことにした。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将の「たい焼き」事件」へのコメントを投稿してください。