3日前、「女将さん、大変です」と利根子に知らせに来たのは副支配人だったが、それは駐車場の隅で野良猫が3匹の子猫を産んだというもので、その場所は増設して大浴場をリニューアルした際に軒が出ているところだった。
旧の建物と新しい建物は接近して建てられているが、10センチほどの隙間があった。
「女将さん、大変です。えらいことです」とまた副支配人が知らせに来た。高齢になった支配人をフォローするようにと若い男性スタッフを副支配人に任命したのだが、彼の「女将さん、大変です」は口癖みたいになっており、今年なってから何回か聞いていた。
「ちょっと一緒に来てください」と引っ張って行かれた場所は大浴場につながる廊下で、「ここです」と言われて「何が?」と確認してみると大変なことが起きていた。
廊下の壁の向こう側から子猫の鳴き声が聞こえ、それが駐車場の隅を確認した副支配人の話によると、3匹いたのが2匹しか見当たらず、親猫が銜えていた時に落下させてしまったみたいで、建物と建物の隙間に落ちて鳴いているというのである。
親猫が移動する際に子猫の首辺りを銜えることは知っていたが、救出不可能な隙間に落としてしまったらどうしようもないではないか。そんな状況を知ったスタッフ達が数人集まり、社長である夫の姿もあった。
「このままでは死んでしまう」と誰かが行った。上の方で心配なのか親猫が悲愴な鳴き声を発している。
昼食が済んだ後なのでまだ今日のお客様は到着されることはないが、利根子の旅館では旅館組合で決まった集客企画の一つである「日帰り入浴」も対応しており、10人程のお客様が入浴中だった。
これから日帰り入浴で来館されるお客様もあるかもしれないし、入浴を終えられてお帰りになるお客様がこの廊下を通られることもあるが、その時に「何で集まっているの?」と質問されたらどのように答えるかも簡単ではない。
利根子が何かよい方法がないかと考えていると、夫が副支配人に「鋸を持って来てくれ」と命じた。
「命を見過ごしてしまうことは出来ない。壁は修理すれば元通りになるが、猫の命は戻らない。助けなかったらこれからずっと後悔することになるから壁を壊す」
そう言った夫に「優しいお考えで大賛成です」と賛同したのは事務所の女性スタッフで、副支配人と共にやって来た支配人も「金づち」と「ノミ」を持参しており、すぐに社長が壁を壊し始めた。
廊下なので壁の厚さは薄かった。鳴き声を頼りに判断し、切り込みを入れて壁紙を破って壊して行くと10分も要さない内に壁に直径50センチ程の穴が空き、そこから副支配人が覗いて子猫を発見、手を延ばして首筋を掴んで引っ張り出すことが出来た。
騒動を知って駆け付けた仲居達も拍手をしている。間違いなく子猫は生きており、助けられたことを知った親猫の鳴き声も止まったが、副支配人はいつの間にか駐車場に行き、親猫を抱きかかえて戻って来た。
親猫と子猫が対面した。親猫が子猫を舐めている。子猫は「ニャーニャー」鳴きながら親猫の腹部を探している。空腹のようで乳房を求めているようだった。
壊した壁の応急処置も済んだ。このやりとりを入浴されてから帰られるお客様が一部始終を目撃されており、ご自身のブログに体験談を書かれて広まって大きな話題になり、地元の新聞社が壁の穴を撮影した写真を乗せて「美談」として掲載したことから多くの手紙や葉書も届くことになった。
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