数日前から気になっている予約があった。それは20日ほど前に電話で予約があったお客様だが、珍しいことに部屋担当の仲居の指名があるのだが、その仲居自身に確認してみても思い出す方がないというからだった。
しかしお客様のご要望だからそうすることにしたが、当日を迎えた今日は女将の宏美にとってはこれまでに体験したことのない胸騒ぎに襲われていた。
そのお客様が最寄り駅からタクシーで到着された。宏美も指名されている仲居も見覚えのないご高齢のご夫婦だった。
「当館を何処で知られましたか?」とフロントスタッフが気を利かせて塩津門をしてくれている。それに返って来た言葉は「友人から勧められてね」というもので、そこから担当の仲居が先導して部屋に案内して行った。
それから15分後のことだった。フロントの横に立っていた宏美に「女将さん、どうもおかしいのです」と担当の仲居がやって来た。彼女がお茶と茶菓子の世話をしていたら様々な質問をされたらしいのだが、彼女のこれまでの歴史やプライベートに関することまで聞かれ、どうしてそんなことをと不思議でならないと訴えて来た。
宏美はすぐに行動して確かめたかったが、夕食が始まって部屋に朝何時に参上した歳まで我慢することにして、「あなたもそれまで耐えてね」と気持ち悪がっている仲居に頼んだ。
宏美がまず知りたかったことは「友人から勧められた」ということの事実で、出来たらその友人が何方で何時ご利用をされたのかということで、それが判明すれば何かわかると言う淡い期待感を抱いていた。
やがて部屋食での夕食が始まった。部屋担当の仲居の他にもう一人別の仲居を応援させていた。それは指名された本人が気持ち悪がっていることもあるが、少しでも安心につながればという宏美の配慮でもあった。
それから30分後。宏美が部屋に参上した。そこでご挨拶と同時に予想もしなかった言葉がお客様から出て来た。
「女将さん、きっと訝っておられると想像するが、実はこの仲居さんをスカウトしたくてヘッドハンティングに来ているのです」
そこで判明したことはお2人が山陰の知られる高級旅館の社長と女将で、夏にリニューアルオープンをするに際して特別なスタッフを集めているそうだが、友人の方が宏美の旅館を利用した際に指名の仲居のことを知り、仲居頭として迎えたいという話だった。
「彼女は素晴らしいね。品もあるし、仕種や所作が美しい。『気品』の『気』が『貴』に至っている。天性もあるだろうが、やって来て想像以上の仲居さんだった。そうだろう、女将さん、トレードしてくれないだろうか?」
こんなことになるなんて予想もしなかったこと。2人の仲居達も驚いている。それにしてもびっくりする提案ではないか。山陰で最も有名な旅館として知られているが、指名されたことは嬉しいことでも、これは本人が決めることで宏美が許す許さない問題ではない。
その仲居は27歳だが、昨年に夫を交通事故で亡くした悲しい体験があるが、高校を卒業してから宏美の旅館に勤務しており、結婚を機に退職していたが、愛する人の死に嘆き悲しむ中で宏美の旅館に対する思慕感から再勤務している事情があった。
そんなことをこのご夫婦に言うことはしなかったが、ゆっくりと相談して後日にご返事するとなって取り敢えずその場を収めた。
担当の仲居はそれからお2人のお世話をするのに苦痛を感じていたと想像するが、応援で入っていたもう一人の仲居がしっかりとフォローしてくれたみたいで、次の日のチェックアウト時に「あのもう一人の仲居さんも欲しいなあ」と言われて帰られた。
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