加恵が女将をしている旅館は16室というこじんまりとした佇まいだが、30数軒ある温泉街の宿泊施設の中では昔から知られる高級旅館だった。
隣接する大型ホテルとの間に150台が可能という広い駐車場があるが、これは隣接するホテルの所有する土地で、昔から姉妹館という関係もあって加絵の旅館の駐車場として利用させて貰っていた。
3年前間で200台ぐらいのスペースがあったが、料理の修行をするために長年イタリアに行っていたホテルの次男坊が戻り、駐車場の一部に洒落たレストランをオープンしていた。
オーナーシェフとしてかなり評判が高く、地元だけではなく他府県からわざわざ来店するお客さんもあり、ランチタイムは30分ぐらい玄関の椅子で待たなければならない状況になっていた。
加恵はシェフを幼い頃から可愛がっており、ホテルの女将と共に彼が評価されていることを喜んでいた。
ある日、午後3時頃で早いお客様がチェックインをされる時間帯だったが、シェフが強張った表情で来館、加恵に頼み事があると言って来た。
チェックインをされるお客様を支配人に任せ、事務所に隣接する応接室に入って話を聞くことにしたが、それは予想もしなかった出来事が起きていたことを知ることになった。
「母が、完全な鬱状態になってしまったのです。原因は私のレストランで起こした事件からなのです」
それは、この日のランチタイムに発生した予想外のハプニング的な出来事で、過去にも何度か精神的な疾患があった繊細な女将が鬱状態に陥った事情を理解した加恵だった。
その事件は混雑するレストランのお客さんに被害が及んだものだったが、起きた原因は店内が込み過ぎていたからという事情もあったようだ。
「1ヵ月前から働き出した若い女性スタッフがいるのですが、彼女が厨房の大変な状態を目にして客席に料理を届ける合間に厨房を手伝おうと考え、ハンバーグセットに付くコーンスープの入った鍋を過熱してくれたのですが、沸騰させてしまったものをカップに入れてお出ししてしまい、常連のお客さんがいつもと同じだと思って口にされたのですが、『熱い!』と驚かれて吐き出され、それがお腹の部分に掛かって軽い火傷を負われたのです」
その被害者の名前を聞いて加恵も驚いた。温泉街にある老舗の呉服屋のご主人で、誰もが知る「猫舌」で、地元の会合で会食の際にいつもそのことが話題になって標的にされていた人物だった。
熱くて耐えられずに吐き出されたと聞いて同情する思いもあったが、鬱状態になった女将の心情も理解出来、シェフが母親の代行として加恵に謝罪に同行して欲しいと頼みに来たことが分かった。
当事者でない第三者である加恵がこの役に入ることは諸刃の剣という危険性もあった。賽の目がどのように出るかは分からないが、昔から交流のある人物だし、姉妹館という関係もあってそのままシェフと一緒に被害者の呉服店に行くことにした。
結果は意外とスムーズに解決となった。原因の背景を正直に伝え、女将が申し訳ない心情で鬱状態に陥って動けないと加恵が言ったが、それは息子であるシェフが言えることではなく、ここに加恵のキャスティングが功を奏したということになった。
スープを沸騰した状態で出すとはびっくりだが、女性スタッフも悪意があってやったことではなく、繁忙という環境が巻き起こしたハプニングということになろうが、これを知ってからスープを出されたら温度を確認するようになった加恵だった。
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