全てのお客様のチェックアウトを玄関で見送った女将の雪絵がロビー入ると、「さっき組合長から電話がありまして折り返しお電話を」とフロントスタッフから伝えられた。
組合長は200メートルほど離れたホテルのトップだが、何か雪絵に急用があるみたいで、「出来るだけ早く」と付け加えていたそうだ。
事務所に入ってすぐに電話を掛ける。組合長から言われたことは「今日、特別室が空いていないか?」ということで、何事かと聞き返して確認したら少し前に市長から電話があって急な来訪者があるそうで、その対応を依頼されたそうだった。
「いつも空いている当館の特別室だけど、珍しく今日は予約があって対応出来ないので女将さんにお願い出来ないだろうかと思ったのだが」
事情を確認すると副大臣がこの地に公務があって訪れることになり、秘書から市長室に電話があってよろしく頼むと言われたことから急に決まったみたいだが、隣接する県にある古い施設が世界遺産の対象となるかもしれず、そうなったら温泉街からそこに最短路となる林道が脚光を浴びることになり、副大臣に嘆願して是非とも道路整備の予算をというシナリオが描かれていたようであった。
こんな場合には組合長のホテルで対応するようになっていたが、生憎と最上級の部屋が塞がっており雪絵の旅館に回って来た訳だが、この対応は温泉街の今後に大きな影響を及ぼすことも考えられ、雪絵も緊張しながら「何とかお受けいたします」と返した。
それから1時間も経たない内に市長の秘書が来館。副大臣の対応に関して細かい指示をされながら打ち合わせたが、世襲議員で昔から我儘なタイプで知られており、無理難題を言われるかもしれないと聞いて断りたくなったが、出来ないことは「出来ません」とはっきり返す雪絵の性格もこの地では有名で、市長も組合長も心配しているという伝言も聞いた。
副大臣のスケジュールでは、今晩の宿泊は隣の県のホテルだったが、地元選出の国会議員を通じて林道の件について伝わったことから、実際にこちら側から走行してみることになったもので、裏側には知事や市長の働き掛けも行われており、隣接県の知事には世界遺産の登録に全面協力するという根回しもされていたことを後日に知った。
その日、暗くなる頃副大臣一行が到着した。部屋は特別室の他に3室を提供しており、費用は半額として差額は組合側か捻出されることを聞いている。請求書のお客様のお名前の部分は空欄にしておくことと聞いており、それがどのように対処されるのかは知らないが、知事や市長もやって来て20人ほどの宴会も中広間で準備することになっていたので食材準備が大変だったが、料理長が午後一番に「道の駅」で朝に収穫された野菜を仕入れて来てくれており、あちこちの仕入先に無理を言って揃えて貰っていた。
宴席にずっとお世話のために入っていた雪絵だが、副大臣とはさすがに政府の要人の一人で、知事や市長が恐縮している姿を目にしてその職務の立場の強さを改めて知った。
午後7時から始まった宴席だが、午後9時過ぎにはお開きとなって落ち着くことになった。
どんな無理難題をと覚悟していた雪絵だったが、拍子抜けのように静かで気持ちが悪いぐらいだった。
しかし、その背景には意外なアドバイスが秘められていたのである。この地選出の国会議員だが、数年前に雪絵の旅館で酔っ払って雪絵に追い出された出来事があり、「あそこの女将は怖い」と拭き込まれていたからだった。
次の日、静かな朝を迎えて部屋食で朝食の準備に雪絵も部屋に参上したが、副大臣はニコッとされた表情で「追い出されなかってよかった」と笑われた。
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