陽子が女将をしている旅館は辺鄙な山間部にあった。十数軒のホテルや旅館が存在しているが、美肌の湯として昔から知られており、女性のお客様が多かった。
陽子の旅館では「お目覚めのお茶」を各部屋に届けるサービスがあるが、それは緑茶と洒落た和菓子を添えているものだが、ご夫婦でご利用のお客様の部屋を担当していた仲居が、ご主人が髭を剃る時に剃刀で顔を切られたそうで、血液サラサラになる薬を服用されているそうで、血液が中々止まらないということからタオルで押さえているとの報告があり、陽子は救急箱を持参してその部屋に急いだ。
ノックをしてから「失礼します」と部屋に入ると、ご主人は窓側のソファーに座られ、仲居から報告があったようにタオルで顔の下部を押さえていた。
「大丈夫でございますか。救急箱を持参いたしておりますが、何か処置対応につながるものはございませんでしょうか?」
「女将さん、心配と迷惑を掛けて恐縮です。私は過去の肌が弱く、右手が少し不自由なのでいつも切ってしまうのです。ホテルや旅館の用意してある剃刀はレベルの低いものが多いですが、この旅館の剃刀は上質で、単なる私のミスでこうなったのですからご心配なく」
そんなやり取りを交わしている最中、奥様が救急箱を開けてテーブルの上に並べた物はオロナイン軟膏にバンドエイドで、「これで何とかなります」とご主人の傷の処置をされ、少し大き目のバンドエイドなので目立ってしまい、チェックアウトされるまでに止血することになればと思った陽子だった。
ご主人の言葉の中に出て来た低質な剃刀を原因とするお客様のクレームは多くのビジネスホテルでも起きている問題で、営業で都内へ出掛けた夫がチェックアウトの際にフロントスタッフがお客様に謝罪している光景を目撃し、戻ってから上質の剃刀に変更した経緯もあった。
部屋担当の仲居が朝食の準備に入室した際、「お陰で止まったよ。女将さんに有難うと伝えてね」と言われて仲居も安堵したが、ご主人の顔にはまだバンドエイドが貼られた状態だった。
それから約1時間後、ご夫婦がチェックアウト。フロントにいた陽子との会話が交わされることになったが、バンドエイドが最小タイプになっていることを確認した。
予約されていたタクシーが来たのは、それから5分後だったが、玄関までお見送りしてタクシーが見えなくなるまで手を振った。
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