志津子が女将をしている旅館には21名の仲居がいる。その内の16名が部屋係を担当し、残りの5名は夕食時に厨房で各部屋へ届けるワゴンの準備整理を担当している。
16室しかない小さな旅館だが、この温泉地にある宿泊施設の中では大きい存在となる。どの旅館も他の温泉地と比較すると高額な料金を設定しているが、昔から知られる名湯として伝承されている恩恵があった。
志津子の旅館では出勤して来た仲居達に義務付けられていることがある。それは日経新聞を含めて5紙を読むことで、時間に余裕があればスポーツ新聞にも目を通すことになっている。
新聞はロビーとラウンジの2か所に分散して置かれているが、これを読む目的とは担当す津お客様との会話に活かすためで、話題が豊富だとお客様が過ごされるひとときに歓迎されることになることから、ずっと昔から続けられて来た秘められた伝統のサービスとも言われていた。
志津子は40歳を過ぎたまだ若い女将である。先代女将が2年前に急逝されたので女将となったが、その伴侶である社長は健在で、志津子の夫は若旦那と呼ばれていた。
若旦那は学生時代からゴルフにのめり込んでおり、一時はプロを目指していたこともあったが、社長から後継しなければ勘当すると強く反対されて諦めた歴史があるが、地元のゴルフ場のメンバーとなって楽しんでいるが、倶楽部チャンピョン戦で優勝したこともあり、今でもハンデが「3」というレベルにあり、時折にゴルフ目的で来られるお客様とラウンドしてコーチをしていることもあった。
今春のことだった。出勤の朝礼で夫が面白いことを教えた。「お客様の手を確認してください。ゴルフをされている方は利き手でない方が手袋をしているので日焼けがなく、随分と対照的になっている筈ですから」と言ったのだが、「ゴルフの話題が出たら若旦那はハンデ3ですよ」と伝えるように命じたのである。
それから2か月ほど経った頃、そんな会話になって「若旦那と話をさせてくれ」と部屋担当の仲居が頼まれて来た出来事があった。
志津子は興味を抱いて夫に同行して部屋にご挨拶に参上し、どんな会話の交わすのかとじっと聞いていた。
「若旦那さんはプロ級らしいですね。実は私は近所の有志のコンペや仕事の組合のコンペでも万年ブービと揶揄されていましてね、性格が悪いのでしょうか、すぐに緊張してミスショットをしてしまうのです」
「あの偉大なジャック・ニクラウスが面白いことを言っています。世界中にゴルフを楽しんでいる人は多いが、絶対に100を叩かないという人は15%だけですというものです。私はこれまで多くの方々にアドバイスをして来ましたが、立場をプラス思考にするだけで随分とプレッシャーが軽減出来るのです。池やバンカーがあって嫌だなあと思っても、その部分は2割だけでセーフゾーンが8割もあるじゃないかと考えるのです」
「いやあ、実に的を射たお話です。マイナス思考をプラス思考へということですね?」
「そうです。ハンデが16だとすれば2ホールをパーで回る必要がありますが、これを逆に考えて16ホールもボギーで回れると考えるのです」
そう言った夫はフロントに電話でクラブを1本持って来させ、グリップについてアドバイスを始めた。
「ご主人、左小指がしっかりとグリップするには親指が重要なのです。親指を遠くへ離すように添えてグリップを擦って上げてみてください。小指がしっかりとグリップ出来ますでしょう?」
「わあ! 本当だ。こんなこと全然気付いていなかったことだわ」
「ティーグランドで自分がショットするまでにグリップの細い部分を握っておき、肩に力を入れて待っているのです。そして自分のショットになったら通常のグリップにすればびっくりするほど握りやすくなっている筈ですし、肩の力も抜けてリラックス状態になれるのです」
そのご主人は、それから10日後に電話があり、コンペでこれまでの最高のスコアでラウンド出来たと喜びの報告があった。
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