20数室ある旅館、今日は土曜日で満室だった。一部のお客様はレストランでのバイキングの夕食だったが、女将の多紀は部屋食の全ての部屋へご挨拶に参上。そんな中で、あるご夫婦のお言葉から特別な計らいをすることになった。
「私達ね、今日が結婚してから55回目の記念日でしてね、前から来たかったこの温泉にやって来たのです」
と奥様からお聞きしているところまでは何も問題なかったのだが、続いて仰った言葉に何とかして差し上げたいと思ってしまったのだった。
「明日の夕方に、この人が楽しみにしていた京都の川床で『ハモ』を食べる予定だったのですけど、この部屋に入って間もなくに息子から電話があり、明日の午後一番に帰宅しなければならなくなって、『ハモ』との縁が流れてしまいましたの」
お話によると、ご主人は特殊な技術を有する職人さんだそうで、後継されている息子さんでは対応出来ない特別な急ぎの仕事が入り、明日の夕方までに対応しなければその仕事以降に作業をされる多くの方々に迷惑が及ぶそうで、仕方なく明日の早い特急列車で名古屋に向かわれ、新幹線で大阪へ帰られるだが、途中で立ち寄られる予定だった京都駅をどんな思いで通られるのだろうかと思ってしまった。
多紀は部屋係の仲居に「出来るだけゆっくり進めてね」と言葉を掛けるとそのまま階下の厨房に行き、料理長に「ハモ料理をお願い」と事情を話した。
この時期はハモのシーズンである。明日に予約されているリピーターのお客様が、「次回はハモづくしで」と言われていたので仕入れていたが、それを今夜に回して明日の朝に届けて貰おうと仕入れ先の鮮魚店に電話をすると、「大丈夫」と確認出来たのですぐに調理に取り掛かった。
大阪の天神祭りや京都の祇園祭の時期は「ハモ料理」の時期とも知られており、今日のお客様はそれを川床で食べようと考えられていたようだった。
東京や東日本では高級料理店しか出されないハモ料理だが、「ハモの骨切り 手並みのほどを見届けん」という句があるぐらいで、1寸に26筋の包丁の刃を入れてやっと一人前と言われるぐらい小骨の切断技術が簡単ではなく、腹側から開いたハモの身に皮を切らないように切り込みを入れる技術は師匠の技術を目で学ぶとも言われ、専用の包丁の存在もあった。
料理長がこの技術を学んだのはこの旅館の先代社長だった。料理人としても知られた先代社長はこの世界で様々な伝説が語られているぐらいで。弟子入りして学んだことを誇りとしている料理長は先代社長のことを思い浮かべながら調理を始めた。
料理長の命で厨房スタッフが夜店のかき氷器みたいな物で氷を削っている。それを押し固めて出来上がった物は雪国の「かまくら」みたいなかたちで、その中に調理したハモを入れる料理演出であった。
骨切りの済んだハモを熱湯に通すとハモが反り返って白い花のように開く。湯引きハモや牡丹ハモと呼ばれるもので、一般的には「梅肉」を添えて出されるのだが、先代女将の梅干しは「幻」と称される代物で、夫の先代社長も「この梅干しは日本一だ」と称賛していたが、この厨房にはその秘伝が続いており、出来上がった料理にその梅肉も添えられた。
それを届けたのは部屋係の仲居で、「女将さんと料理長からのプレゼントです」と出したら感激され、こんな見事なハモ料理は大阪や京都でも食べられないと驚かれたそうだ。
次の朝、予約されていたタクシーで最寄り駅に向かわれたご夫婦だが、玄関で多紀の手を握って「有り難う。最高だったよ」と喜ばれていた。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将と料理長の配慮で」へのコメントを投稿してください。