終着駅という言葉に何か特別な余韻を感じるのは筆者だけだろうか。この「幸せ列車」のページは「誕生」から「旅立ち」まで設定されているが、人生をそれらに委ねて考えてみると、自身の年齢がどの辺りになるかを考えてしまうこの頃である。
筆者は「旅」が好きである。現役時代に講演活動で週に5000キロも新幹線で移動した体験もあるが、現在はゆっくりとした行程を考慮しながら、残された余生を楽しもうと考えている。
終着駅があれば始発駅が存在するのは当たり前だが、最近では出来るだけ始発駅から出発することに「執着?」している。
年間に何度か伊勢神宮に参拝するが、友人達と一緒の場合は近鉄の上本町で待ち合わせ、決して便利でも次の駅である鶴橋駅からの乗車をしないことにしているし、東京や博多へ向かう場合にも新大阪駅始発の列車を選択している。
それは、如何にも旅に出るというイメージを感じるからで、入線してから発車するまでの時間の余裕も旅の感覚の一つと考えているからだ。
鶴橋駅で伊勢方面への特急を利用すると、到着してから約1分で発車となり、何か通勤や仕事に出掛ける雰囲気になってしまうからで、それらは北海道へ飛ぶ飛行機でも同じで、ちょっと不便だが、伊丹空港ではなく関西空港まで運ぶことにしている。
ある時、腰痛を押して北海道へ飛ぶ際、自宅近くでタクシーを止め、阪和道経由で関西空港までと告げると、運転手さんから「この時間帯なら阪神高速から湾岸を経由した方が早いし、料金も割安ですよ」と言われたので「任せます」と返して出発したのだが、阪神高速の恵比須町から入ると本線上は大渋滞。「環状線だけですよ。南港へ向かう線に入れば流れていますよ」と言われるので期待していたら、その渋滞の原因は、南港へ向かう途中で発生していた大きな事故の影響からだった。
流れが止まって1時間以上も動かない。気になるのは出発の時間だが、やっと動き出したのはそれから40分以上も経ってから。お陰で関西空港へ到着した時間は、予約していた飛行機が出発してから30分後だった。
車内から搭乗変更の電話を入れていたので追加金を支払うことはなかったが、次の千歳行きまで3時間以上もあったので参ったという出来事で、腰痛が酷くなかったら伊丹への移動をしただろうが、「痛み」が「伊丹」行きを止めたという親父ギャグが浮かんだ体験でもあった。
遠い昔に学んだことだが、お釈迦様が説かれたことにびっくりすることがあった。人間としてこの世に生を享ける確立を「優曇華の花」か「盲木の浮木」と例えられていたからだ。
前者は3000年に一度だけ咲く珍しい花のことで、後者は想像も出来ない数奇なパーセンテージである。
太平洋と大西洋を合わせたような大海に、100年に一度だけ水面に顔を出す一匹の目の見えない亀が存在し、プカプカと漂流する板に開いた節目に偶然に顔を出したという奇跡的な物語である。
それらは、顕微鏡の存在しない遠い遠い昔の時代に、現在理解されている精子と卵子の結び付きを物語るようで、その例えに驚嘆するものであるが、それだけに人としてこの世に生を享けた幸せに感謝しなければならないとなるだろう。
僭越ながら筆者の哲学を披瀝すると、「被害者になるな」「加害者になるな」ということがあるが、過日の京都祇園の暴走事故や、亀岡の無免許居眠り運転の事故などを考えると、それがどれほど人の「命」に重さと尊さがあるかと訴えたくなるのである。
人生を歩むにあたって言いたいこと、その一つに物事に行動する時「反省で済む範囲内で」「後悔をすることのないように」と考えることがある。筆者もある仕事の世界にあってプロと自負しているが、同じ道を進む若い人達にいつも上述のことを伝えて来た歴史がある。
様々な会食の際、車で参加した人物が乾杯でアルコールを口にしたと知ったら、その後の付き合いを一切しなかった歴史もあるが、ゴルフの世界で言われる「他人に優しく、自身に厳しく」という教えに反し、車の運転にあっては他人にも厳しく接して来た背景には「命」に絡む問題があり、凶器と化す車の恐ろしさを理解して欲しかったからである。
最近にでも酒気帯び運転で検挙される人達がいっぱいいる現実に悲しい思いを抱くが、事故を起こして塀の中で後悔をしても始まらないし、被害者が重症や死亡となれば反省で済まなくなるのは当たり前のことだ。
結びに、筆者と交流のある人物が教えてくれた言葉があるのでしたためておこう。
『罪は死によって贖われるのではなく、命を奪った者が「命の尊さ」に気付き、慈悲の心に触れた時、初めて被害者の閉ざされた心の扉の前に立つことが出来るのではあるまいか』
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30年以上前に書いた愚書に、ある逸話を紹介したページがあった。それは、ある寺院の庫裏で作家が原稿を書いているところへやって来た仏具商の言葉に仕返しをしたという顛末。
「そんな丸や点を書くだけで商売になるとは結構ですなあ」との皮肉に対し、「二重におりて首に巻く数珠」と書いた紙を渡し、注文をするという仕掛けで返した。
数日後、仏具商は「出来ました」と数珠を届けたのだが、もうお分かりだろうが「折て首に巻く」と「折手首に巻く」の引っ掛けがあり、どちらを届けても「違う」という悪戯で、句読点の重要性を教えるものだった。
昔、弔電はすべてカタカナ表記で句読点もなかった。ある団体の合同葬が行われ、関係者が故人のために式次第を手伝うというシナリオが描かれたのだが、弔電を代読する事務長さんが揚がってしまい、「ゴセイキョヲイタミツツシンデオクヤミモウシアゲマス」を、「ご逝去を悼みつつ、死んでお悔やみ申し上げます」と変なところで切ってしまったところから、献唱のために入っていた女性コーラス部の学生達の間に「クスクス」と苦笑する声が聞こえ、それらは一気に式場内に広がってしまう出来事があった。
句読点とは恐ろしいもの。一つ間違うと悲劇や喜劇となってしまう。結びになるが、筆者が思わず笑ってしまった落語の枕を紹介しておくが、らしからぬ?「下ネタ」となるがお許しを。
「乳癌は男性にも稀」「乳癌は男性に揉まれ」という話だが、「ここではきものをぬいで」は「ここで履物を脱いで」と「ここでは着物を脱いで」も有名な話である。
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