遠い昔に学んだことだが、お釈迦様が説かれたことにびっくりすることがあった。人間としてこの世に生を享ける確立を「優曇華の花」か「盲木の浮木」と例えられていたからだ。
前者は3000年に一度だけ咲く珍しい花のことで、後者は想像も出来ない数奇なパーセンテージである。
太平洋と大西洋を合わせたような大海に、100年に一度だけ水面に顔を出す一匹の目の見えない亀が存在し、プカプカと漂流する板に開いた節目に偶然に顔を出したという奇跡的な物語である。
それらは、顕微鏡の存在しない遠い遠い昔の時代に、現在理解されている精子と卵子の結び付きを物語るようで、その例えに驚嘆するものであるが、それだけに人としてこの世に生を享けた幸せに感謝しなければならないとなるだろう。
僭越ながら筆者の哲学を披瀝すると、「被害者になるな」「加害者になるな」ということがあるが、過日の京都祇園の暴走事故や、亀岡の無免許居眠り運転の事故などを考えると、それがどれほど人の「命」に重さと尊さがあるかと訴えたくなるのである。
人生を歩むにあたって言いたいこと、その一つに物事に行動する時「反省で済む範囲内で」「後悔をすることのないように」と考えることがある。筆者もある仕事の世界にあってプロと自負しているが、同じ道を進む若い人達にいつも上述のことを伝えて来た歴史がある。
様々な会食の際、車で参加した人物が乾杯でアルコールを口にしたと知ったら、その後の付き合いを一切しなかった歴史もあるが、ゴルフの世界で言われる「他人に優しく、自身に厳しく」という教えに反し、車の運転にあっては他人にも厳しく接して来た背景には「命」に絡む問題があり、凶器と化す車の恐ろしさを理解して欲しかったからである。
最近にでも酒気帯び運転で検挙される人達がいっぱいいる現実に悲しい思いを抱くが、事故を起こして塀の中で後悔をしても始まらないし、被害者が重症や死亡となれば反省で済まなくなるのは当たり前のことだ。
結びに、筆者と交流のある人物が教えてくれた言葉があるのでしたためておこう。
『罪は死によって贖われるのではなく、命を奪った者が「命の尊さ」に気付き、慈悲の心に触れた時、初めて被害者の閉ざされた心の扉の前に立つことが出来るのではあるまいか』
30年以上前に書いた愚書に、ある逸話を紹介したページがあった。それは、ある寺院の庫裏で作家が原稿を書いているところへやって来た仏具商の言葉に仕返しをしたという顛末。
「そんな丸や点を書くだけで商売になるとは結構ですなあ」との皮肉に対し、「二重におりて首に巻く数珠」と書いた紙を渡し、注文をするという仕掛けで返した。
数日後、仏具商は「出来ました」と数珠を届けたのだが、もうお分かりだろうが「折て首に巻く」と「折手首に巻く」の引っ掛けがあり、どちらを届けても「違う」という悪戯で、句読点の重要性を教えるものだった。
昔、弔電はすべてカタカナ表記で句読点もなかった。ある団体の合同葬が行われ、関係者が故人のために式次第を手伝うというシナリオが描かれたのだが、弔電を代読する事務長さんが揚がってしまい、「ゴセイキョヲイタミツツシンデオクヤミモウシアゲマス」を、「ご逝去を悼みつつ、死んでお悔やみ申し上げます」と変なところで切ってしまったところから、献唱のために入っていた女性コーラス部の学生達の間に「クスクス」と苦笑する声が聞こえ、それらは一気に式場内に広がってしまう出来事があった。
句読点とは恐ろしいもの。一つ間違うと悲劇や喜劇となってしまう。結びになるが、筆者が思わず笑ってしまった落語の枕を紹介しておくが、らしからぬ?「下ネタ」となるがお許しを。
「乳癌は男性にも稀」「乳癌は男性に揉まれ」という話だが、「ここではきものをぬいで」は「ここで履物を脱いで」と「ここでは着物を脱いで」も有名な話である。
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蕎麦の世界に「江戸前」の「通」や「粋」という言葉があるそうだ。「三箸半」と呼ばれる作法に関する拘りだそうで、蕎麦とは小腹が空いた際に食する軽食で、ちょうど三箸半ぐらいが理想ということ。
蒸篭(せいろう)の上にそれ以上重ねると蕎麦が潰れてしまうことがあるし、水切りの具合に悪影響を及ぼすことも考えられるみたいで、「通」と自負する人達は、それを何枚も食する面倒な習慣を続けていたそうだ。
うどんより蕎麦が好みの筆者だが、蕎麦は血圧を下げる効能もあるそうだし、何やら「蕎麦湯」が健康によいみたいな感じもする。
京都の三条大橋を西に行くと、商店街の中に「田毎(たごと)」という蕎麦屋さんがあり、ここでお酒のつまみにちょっとだけ出される蕎麦味噌が実に美味である。
錦市場に立ち寄って、いつも友人に頼まれていた「めざし」を買って帰る行程だったが、そこで得られることになった「蕎麦屋さん情報」が有り難く、数軒訪れたこともあった。
祇園で発生した悲惨な事故は衝撃だったが、あの縄手通りの京阪三条駅のすぐ近くに「うなぎ」の専門店がある。あまり目立たないので通り過ぎてしまうが、ここの「うなぎ」の持ち帰りも好評だったので書いておこう。
食事をして「美味しい」と思えることは幸せなこと。また、幼い子供達が笑顔で食事をする光景を目にすると心が和むのも自然なこと。それこそが幸せの源の一つと考えているが、それが飢えという何より「不幸」の裏面であることを忘れてはならない。
医者、理容店、食事の三つに共通するのは並んで待つことが大嫌いという筆者の思いだが、特別に美味しいという物を教えて貰うとすぐに行動するのだから始末が悪い。それが遠方であろうとなかろうと行くのだから困ってしまう。ある時「明石焼き」のことを聞いて明石に出掛け、3軒を順に体験したのだから自分でも呆れている。
結びに牛肉で知られる「松阪」のことに触れておこう。松阪には「金・銀・海津」という言葉があり、「和田金」「牛銀」「海津」という三軒の店のことを言う言葉である。筆者の好みは「海津」だが、本店と支店が同じ造りですぐ近くにあるので便利だし、日本庭園の中庭が中々のもの。各部屋の名称が「能」につながっていることも興味深いが、すき焼き、ステーキなども体感したが、やはりお勧めは特別なタレで焼く「網焼き」だろう。
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