最近、友人・知人たちの間から、もっとイタリアのことを知りたいと言われることが多くなりました。
そこで、怪我療養中の我が身、この際、イタリアについて書こう ! とペンを持ったまでは良かったのですが、幾日も・幾日も考え込んでしまいました。
というのは 一つの国の文化や社会的背景、国民の性質やものの考えを正しく理解し、それを伝達するということが如何に難問であるかということに気づいたのです。
何度、旅行をしたところで、数々の書籍を読んだところで、到底は理解できるものではないのです。
それでは 一つの国に長く住んだ者が、その国を正しく把握し、理解できるかというと現実問題、それも容易なことではありません。
ローマにやって来た頃、耳に残った言葉を想い出しました。
「一年住めば、その国について、一冊の本が書ける。が、五年住んだら、半冊も書けない。ましてや、十年住んだら、一行も書けなくなる。」
つまり、私のように二十四年間も住んでしまった者には もうイタリアについて書く資格もなければ、書こうという気持ちがあるにもかかわらず書けないという現状に陥る。
イタリア生活も長くなると、「日本との違い」に 驚いたり・嘆いたりという新鮮ささえ消え失せてしまうのです。
何が起こっても、「あっ、そうなの。」とすべてを受け入れるしか術のないことを習得してしまったのです。これは自己防衛と言っても過言ではない。
でなければ、私は事あるごとに心臓発作を起こして、今はもう亡き人になっていたかも知れない。
「日本の常識」を物差しにして、他国のあらる価値判断をしてしまうということは、実は 非常に大きな間違いなのです。
なぜなら、「日本の常識」は 日本の国でしか通用しないものなのです。
それを主張してしまっては 無理というものです。
そもそも、島国日本の歴史と隣国に挟まれた複雑な歴史を持つヨーロッパの国々とは、先ず、歴史の出発点からして、大きく異なるのです。
それでは 海外で生きなければならない者たちは どう生きるべきなのかというと・・・・
「郷に入りては 郷に従え。」
「日本の常識」とかけ離れた他国の常識を如何に許容できるか、否かに尽きると言えると思うのです。
数年前に、大学生の甥っ子がローマに やってきた時のこと。
彼は 毎晩、数時間もかけて、PCを開いては ローマの日本人在住者の書いたブログを読みあさり、次の日の予定を立てていた。
私は ローマに来るに当たって、事前にローマの歴史を勉強し、何処を観光したいのか確りと目標を立ててから来るようにとは助言をしておいたのですが。
彼も私の助言になど従うような甥っ子ではない。
毎晩、夕食時に、「今日は 何処に行って・何をしてきたの?」と
甥っ子の話を聞くことが、私にとって新鮮で・面白かったことを想い出す。
現代人は 情報だけを追いかけていることに時間を費やし、自分で考えたり・感じたりする時間を失ってしまったように思う。
確かに 情報が膨大な利益を生む事も事実である。
いずれにしても、何事も、すべては相手を認めることから始まる。
これが「愛」なのです。決して、相手を否定してはいけません。
今、私がこうして、言語も歴史も民族性も異なる日本文化とイタリアの文化を無駄な比較をすることもなく敬意を持ち、愛することができるのは 日々の生活の中で、イタリア人たちから学んだ大きな財産と言える。
そしてこれからも、日本人としてのアイデンティティーを失うことなく、どんな時にも背中を正し、堂々と生きていこうと思う。
体重と人の性格に関する研究報告が発表され話題になっている。報告によれば「人は太ると性格も変わる」という。
良い方向に変わることを祈りながら話を続ける。
フロリダ州立大学医学部の研究チームは、バルチモア在住のあらゆる年代の男女1900人から、10年の初めと終わりでデータを取った。
まずは臨床医が被験者の体重を測定。その後、今度は被験者が体重を自己申告、そしてさらに臨床医が体重を測定。この調査統計により「体重の変化」と「性格の変化」が関係しているかを調べた。
結果は、体重が10%以上増えた人は、維持していた人に比べて、衝動的で誘惑に弱くなる傾向があると判明した。さらに体重が増加するにつれ、自己中心的で決断力が鈍くなる傾向がみられた。
分析では「体重増加=容姿の変化」に対する家族、友人、同僚たちの反応がネガティブな影響として自身に跳ね返ることが要因だと考えられている。
研究者は「太るにつれて性格が衝動的になり、その変化がさらに太るリスクを増やしている」と結論づけている。「一度太ると自己嫌悪や自暴自棄でさらに太ってしまう」そんな負のスパイラルに陥る人が多いという。
西日本に続いて、東日本も続々と「梅雨入り」が宣言されている。連日、太陽の照らない暗い日が続きそうだ。それも関係してか話題も暗くなってしまった。
太っている方、健康のためにぜひ運動を。(私も頑張る)
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なぜ人はわざわざ悲しい音楽を好んで聴くのか?感情研究の分野で長年疑問とされていたこの理由を理化学研究所が解明したと発表した。
実験によると「悲しい音楽を聴くとロマンチックな気分になる」ことが分かった。実験では、短調で構成された30秒程度の“悲しい曲”を男女44人に聴かせ、
・多くの人はこの音楽を聞いてどう感じると思うか。
・あなたはこの音楽を聴いてどう感じたか。
をそれぞれ62項目、5段階で評価させた。
その結果、回答者たちは「一般的に悲しい」と思うほどには自分では悲しみを感じておらず、むしろ(うっとりする、愛おしいなど)ロマンチックさを感じていることが分かった。
理研は「今回の結果から、芸術には快と不快の両価的な感情を引き起こす作用があることが分かった。この結果は感情の仕組みを考えるための新たな観点を提供する」と評価している。
個人差はあるだろうが、これは人に共通する感情と言えるのではないか。私も悲しいメロディや作詞の音楽を好む傾向がある。自分がネクラなのかと思っていたがそうではなく、普通の感情であることがわかり安心した。
因みにロマンチックとは「現実を離れ、情緒的で甘美な様」という説明が辞書にあった。恋はまさにそのものだ。白昼夢もその定義の中に含まれそうだ。さらに余談。「浪漫」という言葉があるが、これはRomantic、Romanceの漢訳表現である。
ローマ帝国時代の言語は、文語としての「古典ラテン語」と口語としての「俗ラテン語」が存在した。ローマ帝国の衰退期にはこれらの差は徐々に広がっていった。
やがて、基は一つの言語とは呼べないほどにまでその違いは大きくなり、古典ラテン語は、口語の俗ラテン語を使う庶民には理解できないほどにまでなっていった。
その時代の口語を「ロマンス語」と呼んだ。やがてロマンス語で書かれた文学作品は「ロマンス」と呼ばれるようになった。これがロマン主義(ロマンティシズム)の語源となる。
18世紀末から19世紀前半にヨーロッパで、それまでの理性偏重、合理主義などに対し、感受性や主観に重きをおいた、古典主義と対をなす動きが表れた。それらは文芸・美術・音楽・演劇など様々な芸術分野に及んでいった。
そこから、芸術=ロマン主義のような概念が形成され、それらを形容する“ロマン主義的な”という意味の「ロマンチック」という言葉が生まれた。
現代で使われる「ロマンチック」はもっと人の心に入りこんだものになっている。私個人の見解だが、 悲しさや恋しさで胸がしめつけられるような「せつない」という気持ちもロマンチックな気がする。
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