世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もとなげく人の子のため
今、古今和歌集の中にあるこの歌の意味をかみしめている。
4月23日、母(養母)の最期を自宅で看取った。
北国では桜の開花も間近という頃だった。
大叔母と養子縁組をしたのは4年前、
介護の為に同居を始めてから11年の歳月が流れている。
葬儀の後、タンスの引き出しから何冊ものノートが見つかった。
そこには母が残した沢山の短歌と日記が綴られており、私の涙は
止まらなくなった。
今函館はお盆を迎えている。
新盆に、母の日記の中から終戦1カ月前に62歳で亡くなった母を
思って綴られた文章を、ここに原文のまま掲載させていただきます。
このリンゴ蜜がいっぱいです
お米さえ自由に買えなかったあの頃、昭和20年の7月10日、
たった3 日間の入院で死んだ母さん。
あなたの欲しがったリンゴを探して兄さんと二人
あてもなく街を一日中歩いた私。
ようやく手にしたのは見るのも初めての干しリンゴ。
まるでリンゴの皮を削ったようなカサカサの黒っぽさ。
あの時は仕方なく持って帰ったのです。
ところが兄さんの方はどこで見つけたのでしょう?
真っ赤な生のリンゴ3個。
それなのに母さん、あなたはやっと見つけたリンゴも
僅か一切れ口にして、
辛かった、苦しかったこの世を去ってしまったのです。
あれから二十六年も過ぎたのに、
私は今も時々あの病室に残されたリンゴを
泣き泣き白い壁にぶっつけた時の悲しみと共に、
三十三才の若さで夫を亡くしたそのあと、
五人の子供を側らに酷(きび)しい人生を生き抜いた
母さん、あなたを思っては、せめてこの世に
静かな楽しい幾日かを生きてほしかったと、
そればかり考えてはひとり涙するのです。
母さんが亡くなった後もしばらくは
生のリンゴ手にするような時代ではなかったのですが、
あるところにはあるものですね。
何気なく行った友達の家で、
夢のような赤い立派なリンゴを籠に盛って出された時、
私はあの日のことが思い出されて
母さんに済まないと、涙がぽろぽろと落ちました。
友達もそのお母さんも理由がわからないまま、
不思議そうな顔をしていたのを今も忘れません。
母さん、今夜も私はリンゴを買ってきました。
皮をむくとその肌が紅色に染まっているんです。
みずみずしくて蜜がいっぱいなんですよ。
タンスの上の小さな仏壇の前に供えると、
部屋の中が美味しい香りでいっぱいになります。
大好きだったお煎茶の湯加減はどうでしょうか?
最後の日まであの病室に咲いていたアイリスも飾りました。
もし来世があって許されるならば、私はまた
母さんあなたと親子に生まれて、
今度こそ貧しくとも平和な日々の中で、
ゆっくりと楽しく思い出のリンゴを食べたいのです。
そしたら母さん、あなたはきっと喜んで
このリンゴ蜜がいっぱいね、と言ってくれるでしょう。
そんな時の母さん、
あなたの酷(きび)しくもやさしい顔を
今一度私は見たいのです。 (昭和46年の日記より)
分身の術が使えるものなら使いたい。
ドラえもんの「どこでもドア」が目の前に現れたらどんなに好いか?
一人で介護を経験した者なら誰しも同じような気持ちを抱いたことがあるはずだ。
先月末から高齢の母の体調が悪い。
腹痛から始まり、風邪の症状に。通院3週間。点滴を始めて2週間以上経っても、なかなか快復が見られなかった。
軽い認知症はあったが、幻覚症状(医学的には「幻視」と呼ぶそう)が顔を出してきた。
昼夜を問わず、常に喋っている。誰か見えているようだ。
突然話しかけて、「さあ、お上がりください。」と言ったかと思うと、「ありがとうございます」などと普通に会話している。
終いには「お客さん見えてるのに、何してるの」と私を叱る。
その他はほとんど創作の世界。所謂「作話」で、よどみなくなく生まれてくるお話の数々がどうやって頭の中から出てくるのか?覗いてみたいと思うほど内容は巧みだ。話にオチもある。
点滴のために病院のベッドで横たわっている時間は3時間半以上、時には4時間に及ぶことも。
その間、天井に向かって、「ほらほらちびさん達も来たよ。」などと私に話しかけてくる。
北海道は大半が8月盆だが、函館は7月のお盆である。
つい、お盆だから本当に来ているのかも?と思ってしまった。
手足も常に動かしている。夜など突如寝床から半身を起こして、何かをつかもうとする仕草を始めたり、急にブツブツ怒り出して拳骨のグーが横に寝ている私に飛んできたりするので堪らない。
本人もこれだけ動いて喋っていたらさぞかし体力を消耗しているのだろう。
第一眠っていないのだから。
かかりつけ医には当初、薬を使うとそのまま眠ってしまって目覚めないかもしれないと言われたが、とうとう一番軽いタイプの睡眠導入剤を服用させることになった。お陰で3時間ぐらいは熟睡してくれるようになり、私も少し眠れるようになった。
病院が14日からお盆休みを兼ねた夏休みに入ったので、その間は訪問看護で点滴を受けていた。
風邪の症状は和らいでいる。幻視も少なくなり、絶えず動いて喋っていたのが徐々に落ち着いてきた。
と同時に元気がない。お腹の調子も相変わらずゆるい。
眠れない時は辛かったが、静かになればなったで心配事が増える。
今まで幾度となく生命の危機を乗り越えてきた。
心不全であちらへ行きかけたこともある。
それでも戻ってきてくれた。生命力のある人なのだ。
もう一度復活してくれることを願っている。
長く営業している近所の美容室に『長寿心得』なるものが貼ってあり、高齢化しているお客様を励ましている。
90歳で迎えが来たら「そんなに急かすなそのうちに」と言いなさい。
100歳にして迎えに来たら「頃合をみてこちらから行く」と言いなさい。
母は9月で満95歳になる。こちらから行くにはまだ早かろう。
今函館は母の大好物の「真イカ」の季節。
「イカ刺しで一杯やろうよ。早く元気にならないとね。」と話しかけると、しっかり目を開けて嬉しそうに頷いた。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「長寿心得」へのコメントを投稿してください。
函館ではお彼岸のお墓参りを21日と決めている人が圧倒的に多い。
それは1934年3月21日に起きた函館大火で多くの人命が失われたからである。
もともと強風が吹きやすい地形であるため、度々大きな火災に見舞われてきた。
『函館大火史』によれば、明治期には19件、大正期には6件という多さだ。
今では単に函館大火と言えば、昭和9年の大火を指すほど、この火災は市街地の三分の一を焼き尽くし、おびただしい死傷者を出すという最大級の火災であった。
時刻は午後6時53分、一軒の木造住宅から出火。当日は風速30m級の強風がぐるぐる回るように吹いていたという。火は瞬く間に燃え広がり、市内は恐ろしい勢いで火の海と化した。さながら地獄絵図だったに違いない。
橋が焼け落ちた川を渡ろうとした1000人近い人々は、折からの強風による激浪と火の挟み撃ちにあって溺死した。
北国の彼岸頃はまだ冬である。焼け出されて凍死した人は200名を超えた。
死者2166名。焼損棟数11105棟。あまりにも痛ましい火災であった。
春はもちろん秋のお彼岸も21日にお参りする人が多いのは、火災で亡くなった多くの御霊への鎮魂と悲劇を決して繰り返すまいという気持ちの表れであろう。
過去の教訓を契機に函館の街は整備され、防災に強い街づくりを推進することになる。
その象徴的なものが二つある。
一つは広く美しい坂とグリーンベルト。その代表が36m巾の「二十間坂」で、明治12年の大火後、防火帯としてできた坂。
同じ年に改良されたのが「弥生坂」。春を意味するその坂の名は街の発展を祈念して命名したとものと伝わる。
また「八幡坂」は映画やドラマのワンシーンに使われるほど眺めが素晴らしく人気の高い坂であるが、坂の上にあった八幡宮を明治11年の大火で焼失した後整備され、名前だけが面影を留めている。
もう一つ、他の地方で見ることができないものがある。
それは街のあちこちで目にする“黄色い消火栓”。
昭和9年の大火の後、アメリカの防災対策を視察した視察団が見た黄色い消火栓をそのまま採用したため、赤ではなく黄色になったのだという。
今ではこの黄色が函館の街に自然に溶け込んで、異国情緒と美しい景観に一役買っている。
消火栓で思い出したが、アメリカは防災教育の先進国である。
今年の2月のことであったか?アメリカの海軍で実践されている防災教育を日本で取り入れた保育園のことがテレビで紹介されて、衝撃を受けたことがある。
その中でも印象に残ったのは「服に火がついたらどうするの?」という問いかけに、子供たちはすぐさまその場で床に転がり出す。慌てず「止まって、倒れて、転がって」を合言葉に火を消すというものだった。
さらに、きれいな空気が下に残っていることを教え、身を低くして移動。
また重要なドアチェック。ドアノブをむやみに触って火傷をしたり、最悪の場合はドアの向こうが火の海ということもある。必ず手の甲で熱さを感知してから触る。手のひらより手の甲の方が熱さを感じやすいことも初めて知る事実だった。
知識だけではダメ。幼い子供達は訓練することによって身体で覚えていく。
番組を観ながら、自分で自分の命を守る術を教える防災教育の重要性を感じ、もっと普及させてほしいと強く願った。
災害は決して遠いところにあるのではない。
この瞬間にも我々を襲ってくるかもしれない。
今年の冬、北海道では暴風雪による痛ましい事故や遭難が続いた。
何れも自宅まであと数百m、1km以内で起こった悲劇である。
自然災害の前に人は無力かもしれないが、被害を最小限に食い止め、自分を守り、一人でも多くの人命を救う知恵や手段はあるはずだ。
そのためには震災や大火、そしてあらゆる不幸な災害の記憶を風化させずに次世代へ語り継ぐこと、差し詰め函館人なら21日にお参りする理由を後の世に伝えることが今を生きる我々の使命だと、79年目の函館大火の日に改めて思った。
世界三大夜景の一つと称される函館山からの市街地の夜景の美しさは観る者を魅了する。大火で焼かれても失っても、何度も何度も立ち上がってきた“復興の光”だからこそ、これほど人に感動を与えるのかもしれない。
今日は彼岸明け。
彼岸が過ぎれば、北国の春もまもなくである。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「復興の光」へのコメントを投稿してください。
by 大阪ナイツ
2014.10.21
by 大阪ナイツ
2014.10.11
by かめ
2014.09.11
by 青空
2013.12. 6
by のんたん号
2013.11. 2
by 大阪ナイツ
2013.11. 2
by 大阪ナイツ
2013.08.31
by 大阪ナイツ
2013.08.12
by 田園豆腐
2013.07.20
by 大阪ナイツ
2013.07.10
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「母の新盆に」へのコメントを投稿してください。