ペットが人の心を癒してくれるということで、今や世界中の人々が、ありとあらゆる動物を飼っていますね。
そんな中でも、やはりイタリア人の猫好きには目を見張るものがあります。
ローマの「フォロ ロマーノ」や「ラルゴ アルジェンティーナ」などの遺跡跡には 猫の姿が目につきます。
「ラルゴ アルジェンティーナ」は 西暦紀元前44年3月カエザルが暗殺された場所でもあります。ここには まだ数十匹の野性や捨て猫が生存しています。
近年は この猫たちのために保護団体まで設立されています。
とは言っても、現実はご高齢の猫愛好家のシィ二ョーラが、殆ど個人で、この猫たちを管理されているとか。
経済的な事は言うまでもなく。猫への愛情も量り知れるものではありません。
そして、生き物に携わるという事は 一日たりとも休みがないという事です。
日本のサラリーマン用語のように「今日はオンです。」「今日はオフです。」とは簡単に言えない厳しい現実があります。
自分の人生の総てを猫に懸けて生きていらっしゃるこのシィ二ョーラを、
私は幸せな女性だなあと思います。
テレビの放映や、実際にお目に掛かったこともありますが、なかなかのインテリ女性。兎に角、寛大な心の持ち主です。
どんな事ではあっても、一人間が自身で、喜びを感じられる事を続けるという事は(どんな困難に出合っても)何よりも幸せな事だと思いませんか。
実は 私の住むパラッッオも七・八尾の猫を飼っています。
日中は 何処かへ出掛けている猫たちも、深夜には、地上階の泥除けマット(長さ3M横1.8M)の上に全員集合。私は深夜のガードマン達と呼んでいます。
門番が毎朝、道路を一本渡った新聞スタンドへ新聞を買いに行くのが日課になっています。その門番の後ろには五匹の猫たちが続いて歩いているのです。
何という微笑ましい光景でしょう。
十年ぐらい前までは、「パッレ」(顔がボールのように真ん丸だったのでボールという意)がいました。濃いグレーのコロコロの太っちょ。
私の夫が、一人で散歩に出ると、決まって何処かからか出て来て、夫のお供をしてくれていたものです。玄関先まで、夫に付き添って来てくれていました。
私の夫が神経系の病で杖をついて歩いているため、「パッレ」は持って生まれた「助け合い精神」で、スマートに夫をエスコートしていてくれたのです。
「パッレ」は ある日、姿を消しました。車の下に寝ていて引かれたそうです・・・
イタリア人たちとの会話の中で、猫たちの話題が出てくると、まるで我々人間と同等のレベルになります。その時、イタリア人たちは 何時もより目を大きく見開いて、更に大きな身振り・手振りを付けて、彼らの事をいとも自慢げに話し出します。
「どうだい。驚いたろう。凄いだろう。」とでも言うように。
そして、一度・二度と瞬きをして、相手の目をジッと見る。
その姿は まるで、猫の親分とでもいう感じ。
私は イタリア人にとって、猫は血族家族だと思ってみています。
それだけに深い・深い絆があるのです。
2002年2月には ローマの中心部の古代遺跡跡に2500年前から住みつき出した
野性猫たちが「文化遺産」にまで指定されているのです。
ローマでは 猫も遺跡の一部。一つの文化としての価値を認定されたということでしょう。
2000年の長い・長い歴史を歩んできたこの街ローマは ずっとそうであったように、今日も忍び足で歩く猫たちに見守られていると思えてくる。
八月十一日、久世栄三郎氏が「ローマの休日」のいちシーンであるスペイン階段で、オードリー・ヘップバーンがアイスクリームを食べている背景に見える時計の刻んでいる時刻は 監督が何度も撮り直した結果なのか ? それとも監督の意図的なものだったのか。今だ謎となっていらっしゃるとのことを書かれておられました。
そこで、早速、そのシーンを私も見てみました。
私のPCの画面が小さいため、良く見えないのですが時刻は
「約午前十一時二十五分・・」もしくは 「約午後五時五分前・・・」
時を刻んでいる針「時間針」と「分針」の長さの差が確りと確認できませんでした・・・・・
午前十一時過ぎでしたら、時間はストーリーに沿っていると思いますが。
午後五時でしたら、?? それでもストーリーとして「いけないこともない」!
というのが私個人のイタリア的感覚です。
夏の午後五時は まだお日様がカンカンに照っています。
夕食時間が九時から十時位の時間帯になりますので、その前に街角でジェラートを食べても、ごく普通のことです。
時間を忘れ、時間から解放されるということは最高の自由を獲得したも同然のことです。ローマはそれができる街です。
「ローマの休日」の監督も、そこに大きく意図を置いて制作したはずです。
しかし、ローマの街中にある沢山の教会や目に入ってくる公共の時計は
決して、時間が正しいとは言えません。
故障して、既に修復不可能。二十年前も同じ時刻を刻んでいたなんて事は当たり前なんです。
ですから、トリニテ ディ モンテ教会の時計が故障していたという事も考えられないこともありません。
うーーーむ。 (深く考え込む・・・・・)
結論としまして、久世栄三郎氏の仰る通り。これは「ローマの休日」の謎として、これからも受け継がれていくことになるでしょう。
約束の時間に三十分や一時間遅れて、相手が姿を現すことは イタリアでは当たり前。イライラしないと言っては嘘になります。
それでも、素晴らしい出会いであったり、楽しく一緒に時を過ごせたなら、
「まあ、総てを良しとしよう。」と思えてしまう。
「イタリアン・タイム」は時間に追われるのではなく、時間を如何に充実して使うかということになる。言い換えると、如何に人生を味わい・楽しむかということに繋がります。
数年前に、日本の友人が一人でイタリア旅行にやって来た時の事。
「トミイさん ! フィレンツェに到着するはずの列車が二時間も遅れて大変だったのよ ! でもね。イタリア人って、怒らないのね。私一人がプンプン怒っていたわよ。」
「そんな事で、怒るのは日本人だけよ。日本は 総てが定時刻のお国柄。それが当然だけれど、ここはイタリアよお。幾ら怒っても列車はスピードをあげて来れないし・・・」
「そういう事になるわねえ。」と友人しみじみと納得。
二十五・六年前、ボルゲーゼ公園で、一人の老紳士がベンチに座り新聞を読んでいました。私もその近くのベンチに腰を下ろし、旅の疲れを癒していました。
この紳士は 周りのことなどを気にする様子も全くみられず、一時間たっぷりと新聞を読み続けました。そして、満足気に、ゆっくりと深呼吸をして立ち上がりました。
私は ずっとこの紳士を注意視していました。
「素晴らしい ! 」「これがイタリアン・タイム ! 」と感激しました。
私も、この国で、あの老紳士のように暮らせるようになりたい。・・・そう思ったのが渡伊を決心する始まりでした。
今では 念願が叶い、この国で、自分の「腹時計」で生活をしています。
近所の教会の鐘が鳴ると、だいたいの時間帯も、この身体が覚えました。
イタリアの生活は「時間の外」です。
世界に唯一つ。
これは イタリアのマジックでしょう。
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ローマは 猛暑が続いています。
日差しの強さといったらない。屋外へ出て、三・四分もると、肌がジリジリといっているのが判ります。
こういう時期は セランダ(雨戸)を下ろして、高熱の日差しを遮断し、エアコンの中で過ごすしか方法はない。
しかし、エアコンの効いた暗い室内で過ごす日が続くと、人の心理状態は
不健康になる。心の極限状態に近づいてくると言っても過言ではない。
心の極限状態を「登山」を例に取ってみましょう。
もう、三十年も前にエベレスト山で名手登山家たちの間に起きた事実(大喧嘩)として、私の記憶にも残っています。
山頂を目指して、連日の疲れ・酸素不足・睡眠不足・・・
そして、一日二十四時間、顔を付き合わせる・逃げ場のない生活は
人間の地金をむき出しにさせるといいます。
こういう極限状態では 脳の抑制が薄れ、普段なら言わないこと・言ってはならないことを口にしてしまう。そして、行動に走る・・・・
そこで、四六時中一緒にいる仲間の一人の笑い方に妙に腹が立つ。
食事の仕方まで、気に入らない。
あいつの貧乏ゆすりを見るだけでもイライラする・・・・・・
という具合に深まっていく。
山登り仲間として、十年以上も、仲良く付き合って来たもの同士が敵同士になることまで、しばしばあるという。
自分自身で、気づいていなかった憎しみが、溜まりに溜まっていて、身体が生理的にまいった時に、行動となって噴出す例も多いといわれています。
実に危険な人間の「心の状態」です。
ありとあらゆるストレスの多い現代社会、原因はそれぞれに違っていても、このような心理状態に至ってしまうことは、誰にでも起こりえることです。
人間は 喜び・夢をみ・怒ったり・威張ったり、時には悟ったり・・・・しながら生きています。このように人の心というものは 千変万化してさまざまな断面をみせるものです。
人間は皆「不完全」です。
自分自身の不完全さを認められたら、他人を攻撃することなどできる訳がありませんね。
今一度、人間が本来持っている「人間らしい愛」を持って、日頃接している仲間達や家族をみつめてみてはいかがでしょう。
この原稿を書き終えて、コラムにアップする間も無く、今、海の別荘(友人所有)へ、たどり着きました。
トランクは そのままにして。テラスで、思い切りリラックスする。
何も考えないで、ただ・ただ地平線を見つめる。
強い太陽の日差しが、首筋をジリジリと焦がす。
太陽は 人の心をなごませてくれます。
ここに来るまで悩んでいた事も、今は悩みではなくなっている。
生きているという、ただそれだけが、素晴らしく思えてならない。
他に何を望もうか。
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